AKB選抜総選挙論②
まず、前回のおさらいです。
本投稿では、AKB選抜総選挙を、実際の政治理論であり、投票行動を数式化したライカー・モデルに当てはめる試み。
ライカー・モデルは、
R=P×B+D-C
で表されるもので、といっても、なんのことだかわからないので、一つずつ説明していっています。
前回は、P=自分の投票によって選挙結果に影響を与える可能性について分析。
P、つまり、結果に影響を与える可能性がが大きければ、投票する可能性が高くなるということですが、
一人何票も入れられるAKB選抜総選挙では、その可能性は大きくなるので、Pは大きくなる。
というところまでが、前回で論じた概要です。
では、続きに入ります。
次に説明するのは、Bです。
Bは、政党間の差異の大きさを表します。
例えば、日本にある政党のほとんどが保守政党、もしくは革新政党だったら、どうでしょうか?
どの政党が多数派になっても、政策に大きな違いがなくなってしまいます。
そうなると、どの政党が勝っても同じじゃんと思い、選挙に行かなくなり、投票しなくなってしまいます。
なので、いろんな政策を掲げる政党が複数存在することで、投票行動を高くし、結果投票率向上につながるという考えです。
これを、選抜総選挙にあてはめるとどうでしょうか。
要は、投票する対象(=メンバー)に違いがあればいいわけです。
例えば、(もう卒業してしまいましが)渡辺麻友と指原莉乃はどうでしょうか。
王道アイドルの渡辺麻友と、バラエティクイーンの指原莉乃。
まあ、こじつければ保守政党と革新政党みたいなものですよね。
あるいは、女性受けする小嶋陽菜や、ギャルっぽさが人気だった板野友美と、その多様性がAKBグループのウリだったわけですよね。
つまりは、いろんなメンバーがいるから、自分が応援できるメンバーがいる。そして、そのメンバーに投票する。
これが、AKB選抜総選挙だったわけです。
つまり、政党間の差異ならぬ、メンバー間の差異がAKBグループには存在していた。
だから、選抜総選挙では、多くの人を巻き込み、投票数を増やすことに成功したというわけです。
【結論②】
AKB48グループは、メンバー間の差異が確かに存在し、選抜総選挙ではそれが活かされていた。
続いて、Dです。
Dが少し抽象的になりますが、投票に参加したことで得られる義務感を意味します。
有権者として、また一市民として投票に参加したり、自分が賛同する政党・候補者を支持したことによって、満足感が得られる。だとしたら、投票に行く可能性は高まりますよね。
ここでは、AKB選抜総選挙に投票したことで、満足感が得られるのかという話です。
もちろん、自分の推しメンが一位になって、センターを勝ちとれば、大きな満足感が得られると思います。
しかし、一位になれなかったら、自分の投票は無駄になってしまうのかと言えば、そうではありません。
ここで、重要なのは、AKB選抜総選挙への投票権は自分が勝ち取った権利であるということです。
歴史を振り返ると、自由の権利は、革命など王政に対する闘争を経て、獲得されてきたものです。
そもそも、実際の政治の選挙に行かないのは、投票権が気付けば当たり前になっている点が大きく
ポストに投票権がいつしか入っている。そこに闘争はまったくありません。
でも、AKB選抜総選挙では、CD購入やモバイル会員になって、要はお金を払ったりして、権利を得ているんです。
だからこそ、投票することで得られる満足感は高いはずですし、逆に、投票しなければ、その戦いは水泡に帰すわけです。
【結論③】
AKB選抜総選挙では、その投票権を勝ち取っているため、投票することで得られる満足感を高めることが期待される。
最後に、Cです。
Cは、簡単に言ってしまえば、コストです。
Cは減算なので、今までの要素と異なり、大きければ投票行動の阻害につながります。
例えば、投票日が雨の日だとコストは大きくなり、投票に行かなくなる可能性を高めます。
最近は、期日前投票の浸透で、コストを減らす工夫がなされています。
では、AKB選抜総選挙におけるコストは何かというお話です。
いろいろあると思いますが、一番大きいのは、すでに触れましたが金銭的コストではないでしょうか。
CDを買う、モバイル会員になる。いずれも、費用が発生します。
ですが、このコストは工夫次第で減らすことができるではないでしょうか。
CDには投票用紙だけではなく、曲、DVD、メンバーの写真(ランダム)がついてきます。
また、モバイル会員については、会員限定のオリジナルコンテンツが楽しめるなど、選抜総選挙目的でなくても、楽しめます。
別の考えをすれば、かけられる金額も自分で決められるので、許容範囲を超えるコストになりにくいとも考えられます。
つまり、額面通りのコストだけでなく、有権者の工夫次第でコストは少しでも減らすことができます。
さあ、詰めの段階に入ってきました。
ここまでの流れを整理します。
まず、なぜAKB選抜総選挙に多くの人が投票するかを、ライカー・モデル(R=P×B+D-C)を用いて説明することから始めました。
ライカー・モデルで算出される、有権者が得られる利得(R)を大きいことを証明するわけです。
選抜総選挙については、以下のことが言えると考えます。
・投票によって結果に影響を与える可能性(P)は大きい
・投票対象(メンバー)の差異(B)は大きい
・投票によって得られる満足感(D)は大きい
・コスト(C)は工夫次第で減らせる
すると、P×B+D-Cで算出されるRは大きくなるでしょうか、小さくなるでしょうか。
自明ですね。
つまり、AKB選抜総選挙というのは、実際の政治理論を用いて説明しても、投票したくなる選挙ということが言えます。
これが、結論です。
AKB選抜総選挙論①
AKB48の歴史を語るうえで、AKB選抜総選挙は欠かせないイベント。
これに、異論を唱える人はそんなにいないのではないでしょうか。
選抜総選挙の投票券が入ったシングルは200万枚に近いセールスを記録し、
結果の生放送は視聴率20%を超すなど、アイドルのイベントという域を越え、
社会現象と言われるほどになりました。
そもそも、選抜総選挙というのは、AKBの運営側が決めていたフォーメーションに対して、
ファンの「なぜ、あの子が前列なのか?」という声が募り、
秋元康Pが「ならば、ファンによる投票でフォーメーションを決めさせよう」
という逆転的発想がそもそもスタートでした。
つまり、選抜総選挙はどちらかというと身内向けのイベントでした。
しかし、回数を重ねる中で、そこまでコアなファンではないライト層も巻き込んでいきました。
ここで、一つの疑問が生じます。
なぜ、人々はAKB選抜総選挙に熱狂するのか?
今回の投稿では、実際の政治理論を用いて、この疑問に対する検討を紹介したいと思います。
まず、本当にAKB選抜総選挙に人々は熱狂しているのか?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
そこで、直近3回の選抜総選挙の総投票数をご紹介します。
第8回(2016年)…325万5400票
第9回(2017年)…338万2368票
第10回(2018年)…383万6652票
引用:https://www.oricon.co.jp/news/2113808/full/
まあ、すごい数字ですよね。経済効果いくらだよ、という話です。
ちなみに、第2回(2010年)が37万7786票ですから、約10年間で10倍以上増えたことになります。
もちろん、ファンの絶対数も増えたこともありますが、ライトなファン層も投票に参加したことも、ここまで投票数が増えたと判断できると思います。
さて、では、AKB選抜総選挙の何がここまで多くの人を投票に駆り立てるのか。
そこで、実際の投票理論として存在する「ライカーモデル」を、このAKB選抜総選挙に当てはめて、検証したいと思います。
まず、ライカーモデルのご紹介から。
ライカーモデルは、アメリカの政治学者であるウィリアム・ライカーが確立した投票行動理論です。
R=P×B+D-C
まず、Pの要素ですが、これは自分の投票によって選挙結果に影響を与える可能性を意味します。
日本の場合は、地方選挙よりも国政選挙のほうが投票率が高いのですが、アメリカだと、地方選挙のほうが投票率が高いというデータがあります。
これは、地方選挙のほうが有権者数が少ないので、自分の一票が結果を決する可能性がより高まり、それ故に投票意欲が高まる表れと考えられます。
実際、有権者数が3人だったら、と考えれば、自分の一票が結果に与える影響力はかなり高いですよね。そしたら、投票したいと思う人も増える。そういうことです。
これを、AKB選抜総選挙で考えると。。。
AKB選抜総選挙って、ご存知のとおり、一人一票ではありません。賛否両論ありますが、これについては、また別の機会で。
すると、自分の投票数によって、推しメンの順位を上げることができるわけです。
実際、1000票入れて推しメンの順位を1つ上げた友人もおります。
また、ご自身もAKBのファンで、AKBに関する著書もある漫画家の小林よしのりさん。
以前、ブログでこのような投稿をしておりました。
---------------------
AKB総選挙の票の内実を問うたら、そもそも成り立たない。
あれは一人一票の民主主義ではないのだ。
外国人の票を外したら、今度は国内の太ヲタ票を
外さねばならない。
一人で百万、二百万、いや一千万円ぶち込んで、
アルバイトを雇って投票する太ヲタだっている。
ようするに金持ちのオッサンをヲタにしたメンバーが
上位に入るという、理不尽を内包しているのが
AKB総選挙なのである。
引用:https://yoshinori-kobayashi.com/5064/
---------------------
一部を切り取っておりますが、この部分から考えると、「金持ちのオッサン」になれば、結果対して十分な影響を与えらることを意味します。
【結論①】
乃木坂46はモッブを生み出さない~坂道ナショナリズム論④~
長い前振りが終わり、いよいよメインにはいってきます
つまりは、アイドルでナショナリズムは語れるか?
ここまでの内容を整理すると、
①伝統を重んじるナショナリズムに対して、全体主義は、伝統の破壊により共通項を見つけようとする
②民主主義は、ナショナリズムよりも全体主義に近い存在
今回のポイントは①にあります。
つまり、伝統を否定しているか?ということです。
そもそも、坂道シリーズにとっての「伝統」とはなにか。
例えば、乃木坂46はAKB48の公式ライバルとして結成されました。
すると、乃木坂46はAKB48ので伝統と反するのか。
でも、両グループには共通点があります。
【共通点】センター・選抜・アンダー制度、握手会の存在
基本的にAKBの伝統は重んじてる?という見方ができます。
一方で、雰囲気はどうかでしょうか。
乃木坂46は「雰囲気がいい」と言われています。
それは、メンバー同士が選抜・アンダー関係なく、仲良くしている印象がもたらすものです。
例えば、写真集『乃木撮』は2018年の写真集売り上げ年間ランキング1位となる大ヒットとなりました。
これをナショナリズム論で話した高文化の話に繋げていきます。
平均化を目指すなかでモッブみたいな存在が生まれてしまう。これは普通であればしかたないことです。
ですが、乃木坂46において、このモッブは生み出されないわけです。
モッブを生み出さなければ、全体主義につながることはありません。
なので、乃木坂46はナショナリズム的グループという立ち位置になります。
そんなおしゃれな曲を出している乃木坂46もデビュー曲は「ぐるぐるカーテン」というTHEアイドルソングでかわいい曲でした。
もともと、AKB48も「会いたかった」というかわいい曲を出しているわけなので、デビュー曲はかわいいテイストの曲が傾向としてあるわけです。
しかし、この固定観念に一石を投じたのは、欅坂46の「サイレントマジョリティー」でした。
欅坂46といえば、ナチスを彷彿とさせる衣装で、物議をかもしたこともありました。
だから欅坂46=全体主義というのも短絡すぎるのでもう少し筆を進めていきます。
またまた、高文化の話です。
落ちこぼれてきな存在が、モッブに近い存在と話しました。
でも、平均化に反する存在は、落ちこぼれだけじゃないです。いわゆる吹きこぼれ、平均よりも突出した存在もいるわけですよね。いうならば、「逆モッブ」。
逆モッブは平手友梨奈ということはできないでしょうか?
さらには、欅坂46の「ガラスを割れ」という曲。
サビの冒頭は、
目の前のガラスを割れ!
握りしめた拳で
Oh!Oh!
やりたいこと やってみせろよ
おまえはもっと自由でいい 騒げ!
という歌詞です。どこか、安保闘争を彷彿とさせるものを感じないでしょうか。
そして、繰り返しになりますが、
安保闘争の帰結は、「民主主義」という名の「全体主義」なわけで・・・・
話は日向坂46に移ります。
もともと、日向坂46は、けやき坂46(「ひらがなけやき」と言われてました)という欅坂46の妹分的な存在でした。
それも、欅坂46の元メンバーである長濱ねるの欅坂46の加入のタイミングで、メンバーを募集。
もともと、前身のけやき坂46は欅坂46に対して少し格下げされた位置づけにいたんです。
とすると、出自自体がモッブに近い存在というわけになります。
そして、彼女たちにとって欅坂46という妹分的存在、そして「けやき坂46」という名前は「負い目」に近いものと考えられます。
「負い目」というキーワードどこかででてきましたね。
そうです、ドイツ・ロシアが負い目ゆえに「血」という架空の根拠を民族定義に用いてしまった。
同じように、彼女たちの負い目はグループ名の改名という形で払拭されます。
そして、「改名時のメンバー」という根拠をもとにグループの定義を行ってしまった。
それは、改名という伝統の否定なわけですから、全体主義的な発想とも言えます。
坂道シリーズをナショナリズムをベースに語ると、
乃木坂46⇒ナショナリズム的
欅坂46⇒全体主義的
日向坂46⇒全体主義的
という位置づけになります。
以上、坂道シリーズをナショナリズムで語ってみたでした。
ありがとうございました。
乃木坂46はモッブを生み出さない~坂道ナショナリズム論③~
次に③ナショナリズム=民主主義?の誤解を解いていきます。
そして、ここでのキーワードは「朱子学」になります。
まず、江藤と丸山の朱子学に対する立場を明らかにすると、
江藤は、朱子学に共感して肯定的
丸山は、朱子学を戦前思想と捉え否定的
これは、両者の1945/8/15に対する見方にも共通して言えます。
丸山は、とにかく戦前を否定的にとらえていた。だからこそ、1945/8/15を転換点と捉えるわけです。
嫌いだった戦前がその日をもって終わるわけですから。
一方の、江藤は、1945/8/15を「挫折」と捉えます。
そもそも、両者が朱子学という江戸時代の思想に着目したのはなぜでしょうか?
日本文学史上に、空白の60年間が存在します。それが、1600年からの60年間。
江藤は、この空白を発見し、1600年を1945年と同じ位置に位置付けます。
そこで、江藤はこう考えました。
朱子学という普遍的な価値観、戦後でいうところのアメリカが流入し、無秩序状態になっても、自前の伝統から善悪の共通基準を見つけ、世界を再構築する必要がある。
一方、丸山は、批判の意味を込めて朱子学をを「自然的秩序」と記しました。
天が上、大地が下にあるのは、自然的現象であり、恒久不変の原理である。
朱子学は、この不変の法則を、人間関係にも当てはめ、「お上」(=天)は「大衆」(=地)よりも上にあると述べてしまっている。
そんな二人にとっての、戦後最大の政治的事件は何か。
1960年の安保闘争です。
戦後、日本には民主主義が芽生え始める。
そんな期待を持っていた丸山でしたが、安保闘争では、市民の声=民主主義が敗北。
さらには、デモの様子は、一種の全体主義、戦前に近い状態でした。
丸山の「戦後」に対する期待は崩れたわけです。
対する江藤も、戦後に対する期待をもともと持っていなかった。
さらには、安保のデモも、指導者が、民主主義を守るという自分の正しさに、他を巻き込んでいるだけと感じた。
「政治の過剰支配」=全体主義に通じるものと考えました。
乃木坂46はモッブを生み出さない~坂道ナショナリズム論②~
まず、①ナショナリズム=全体主義?の誤解から解いていきます。
そもそも、全体主義とは何でしょうかか。
ここでは、「独裁者による支配を歓迎する雰囲気、集団」としておきます。
じゃあ、なんで、国家は全体主義に走ってしまうのか?
その背景には、「ヨーロッパのアイデンティティの喪失」があるわけです。
どういうことか。
近世のヨーロッパがヨーロッパたる所以は、その「科学技術」で他国を圧倒していた点にあるわけです。
イギリスの蒸気機関などが、いい例。
だけど、科学というのは、後出しじゃんけんみたいな側面があって、後発国が真似して改良して、もともとの国よりもレベルを高められるわけです。
すると、科学技術力で他国を圧倒していたヨーロッパは、アメリカや日本などに科学技術力のお株を取られてしまい、結果、アイデンティティを希薄させてしまうことにつながります。
そのアイデンティティの喪失に抗うべく登場したのが、全体主義国家になります。
そして、その全体主義が動き始めた時代に登場したのが、ハンナ・アーレント。
ハンナ・アーレントの新しさは、帝国主義を「無限に回るモーター」と表したことにあります。
ロジックは以下。
帝国主義化すると、無限に利潤を求める
↓
市場が”独り歩き”する
↓
利益を求め、異国の地を求める個人(これをモッブという)が増加する
このモッブ。ある特徴があります。それは、
キリスト教の教えを敬虔に信じている
ということです。
じゃあ、質問です。
このキリスト教の教えをめちゃんこ信じてるモッブが、キリスト教の教えに出てこない「黒人」と出会ったらどうなるでしょうか?
いままで、自分のすべてのよりどころにしていたキリスト教の教えに出てこないわけです。
自分というのが何なのか?
という考えを持ってしまいます。
結果、存在が「無」になるわけです。
自分のアイデンティティを失うわけです。それでいいわけがありません。結果、どうなるか。
アイデンティティを守るための非常手段としての人種主義思想に入ってしまうわけです。
これって、さっき紹介した全体主義の背景に似ていますよね。
自分のアイデンティティが危機にさらされる
↓
結果、極端な思想・主義に走ってしまう
国家レベルでも個人レベルでもここは変わらないのです。
話は変わります。
「高文化」という言葉があります。
これは、子供たちに同じように教育を受けさせて、平均化するというものです
すると、子どもたちはどういう考えるになるか。
携帯できる長所(学歴、資格など)を身に着けさせることを考えるわけです。
どこに行っても、通用する人間になるということです。
だけど、全員が全員同じようになるわけがありません。
いわゆる落ちこぼれみたいな人って絶対出てきてしまいます。
これが、モッブに近い存在になるわけです。
そして、このモッブみたいな存在の国があります。
それが、WW1で敗戦した「ドイツ」「ロシア」です。
さっき述べた全体主義のはなし。まさしく、ドイツとロシアは、全体主義国家にその後なってしまいました。
その背景には、「負い目」があるわけです。
さきほど高文化のところで、「携帯できる長所」という話をしました。
このドイツなどは、人が携帯できる優位性に「血」を求めてしまったのです。
ここで、ピースは揃いました。
ドイツやロシアは、モッブに近い存在で、携帯できる長所を持てないでいる。
そこで、何を携帯できる長所としたか。
それを「血」にしてしまったわけです。
しかし、「血」に優位性があるわけがありません。
ですが、無理矢理に「血」という架空の根拠を基にして、民族の定義を行ってしまったのです。
これは、土地柄などの伝統を無視した線引きです。
つまりは、この伝統を無視するところに「全体主義」のポイントがあるのです。
一方、ナショナリズムは、土地などの伝統を重んじる考えに近いのです。
だからこそ、全体主義をナショナリズムと同義に語るのは間違いになるわけです。
乃木坂46はモッブを生み出さない~坂道ナショナリズム論①~
現在、日本のアイドル会を席巻している「坂道シリーズ」。
乃木坂46、欅坂46、日向坂46の3グループ。
今回は、この「ナショナリズム」で坂道シリーズを論じられないかという実験的ブログとなります。
まず、簡単に各グループの紹介を。
乃木坂46は、レコード大賞2連覇するなど、言わずもがなのトップアイドル。
バラエティ、ドラマ、映画など多方面にわたって規模を拡大中です。
次に、欅坂46は、どうしても、センター平手友梨奈に目が行ってしまいがちです。
しかし、平手休養中に他メンバーもスキルアップし、さらに2期生も登場。徐々に勢いを回復中です。
最後に日向坂46は、今年シングルデビューの坂道の妹。
「けやき坂46」時代の苦労もあり、団結力は随一。
ちなみに、センター小坂菜緒の兄は平手推しとのこと。
この3グループを見ていて、それぞれにチームカラーというか、特色がある以上、3グループの間には、一種のアイデンティティが存在すると考えるべきではないかというのが、今回のブログのスタートでした。
さらに、昨年の紅白で、司会の広瀬すずが「欅坂46」のことを「乃木坂46」と紹介してしまうミスで、広瀬すずのスタッフが謝罪するという事態に。
これは、裏を返せば、それぞれのグループの間に決して交われない「村」的発想があるのではないかと思いました。
このことを「ナショナリズム」として分析できないかというのが、今回の要旨になります。
なので、この考察の目標は、
①ナショナリズムについて理解を深める
②それを踏まえて、坂道シリーズにおけるナショナリズムを語れるか?という実験
の2つです。
今回は、「ナショナリズム」については、先崎彰容氏の『ナショナリズムの復権』をベースに論を進めます。
この本は、ハンナ・アーレント、吉本隆明、江藤淳、丸山真男などの思想、著書を通してナショナリズムに関する3つの誤解を解くという内容。
その「3つの誤解」とは何か。
①ナショナリズム=全体主義?
②ナショナリズム=宗教?
③ナショナリズム=民主主義?
今回は、①と③の誤解について、どう説かれているかを説明して、そこから坂道シリーズとリンクさせていきたいと思います。